1981年、愛知県生まれ、愛知育ち。「電話占いをこよなく愛する」当たる占い師辞典の運営者。
人生で行き詰ってしまい途方に暮れていた時、藁(わら)にもすがる思いで試してみた電話占い。
あの時、電話占いで先生のアドバイスを聞いていなかったら、もしかしたら今の私はいなかったかもしれない。
その後、転職や結婚についても電話占いでアドバイスをいただくようになり、先生が話すことが次々と的中していく現実を目の当たりにすることに。
かつては大きな悩みを相談していたが、今ではちょっとしたことも相談して「大きな悩みに発展する前のリスクヘッジ」として電話占いを活用している。
改めまして
こんにちは、当たる占い師辞典運営者のカズです。
私はもともと「占いが大っ嫌い」な人間でした。
アンチ占い、アンチ占い師、アンチ占い愛好家!
そんな占い大っ嫌いな人間でした。
私にとっての「嫌いな占い」
私が占いを嫌いになったきっかけは「朝のテレビで見かける血液型占い」や「雑誌に載っている誕生月占い」みたいな占いの存在でした。
血液型でその人の今日の運勢がわかるの?はぁ?って感じですし、生まれた月だけで全員一緒の運勢なわけないじゃん!って気持ちが強かったです。
とくに、友達から「今日のカズは最下位~」みたいにからかわれるのもイラっとするポイントでした。
大人になっても同じようなことは続いて、占い師でもない知人が「俺タロット占いできるから占ってあげるよ!」って声をかけてきて、半強制的に占いを始める。
手つきは悪く、そのやり方でホントに占えるの?ってくらいのレベルのど素人占い。
そして、あたかも私のすべてを知ったかのように「タロットがこうだから」と言いながら占いの結果を押し付けてくる。
しかも、占いが終わって以降も「あの時のタロット占いでこうだったから君はこういう性格のはずだよ」とか言ってきて、素人は黙っとけって気持ちが非常に強くなりました。
しょせん占いなんぞ当たらないでたらめなもの。
無責任でテキトーな占いと出会うたびに、私の占い嫌いは加速していきました。
家庭崩壊、人生のどん底へ落ちていく私
無意識のうちに占いとの距離を置いていた私でしたが、占いなんてなくても毎日平和に幸せに暮らしていました。
占いなんかに頼らなくても、仕事も順調で充実した毎日。
将来も明るくて、平凡で幸せな毎日を送っていました。
徐々に家庭が崩れていく恐怖
平和な毎日を送る私に訪れた危機。
それは父の精神的な病気から始まりました。
私と兄と姉は小さいころから父が教育してくれて、その存在は絶対的なものでした。
父の教えには「コンビニで買い物をするヤツは馬鹿だ」とか「定価で物を買うな」とか、ちょっと普通の家とは違う感じの教育方針でした。
ちょっと普通とは違う育て方だったかもしれませんが、それでも私たち3人を大学まで出してくれた尊敬すべき父でした。
そんな父が精神の病気「躁鬱病(そううつびょう)」になったことで、私たちの当たり前にあった幸せは崩れていくことになりました。
躁鬱病で生きる希望をなくしていく父
躁鬱病になった父は鬱状態の時は家にいて、今にも自殺しそうな、見ている側まで精神を病んでしまいそうな、そんな苦痛に満ちた日々を送りました。
躁状態の父は車で外出をしたがり、時には車で出かけ電柱にぶつかって警察から連絡がくるなんてことも日常でした。
私たちをまっとうな人間に育てたいというかつての姿から、こうでなければならないという強い意志を感じていた父。
プライドが高く、仕事に対する姿勢は誰よりもまじめで手を抜かない父。
そんな芯の強い父は、きっと無理をして頑張りすぎてしまったんだと思います。
プライドが高い父が躁鬱病になり、仕事を失い、家族に迷惑をかけている状態に、父自身が耐えられなくなっていくのがわかりました。
父の影響で姉が鬱状態に
躁鬱病になった父、尊敬する父の変わり果てた姿に、父を最も尊敬していた姉は心を痛めてしまいました。
激しく上下する父の感情に姉は共鳴してしまったのかもしれません。
姉が鬱状態になるには、それほど長い時間は必要ではありませんでした。
父だけでも大変で、毎日家族が無茶苦茶にされている中で、姉まで精神を病んでしまった。
この状態に、私の精神も次第に追い込まれていきました。
家族の一大事に帰ってこない長男への怒り
私と姉が父に振り回され、壮絶な毎日を送る中で、兄は遠く離れた土地でのうのうと暮らしていました。
一足先に家を出ていた兄には兄の生活があって、私たちを助けることができなかったのかもしれない。
でも、だけど、、あの状況の中、家族を守るために戻ってくるって選択はなかったのかよ!!!って、虫唾が走るほどに怒りを覚えました。
自分がよければいい。
わが家から逃げたままの兄には、そんな身勝手な生き方がにじみ出ていました。
離婚をしない母、美談かもしれないけれど・・・
母にとっては生涯を誓い合った父。
壮絶な状況を知る親戚たちが親切で離婚を提案するものの、母は「生涯を誓った相手」と言って離婚することはありませんでした。
他人からすれば「お母さんステキ、美しい夫婦の形」とかいうかもしれないですが、家庭は崩壊して姉はメンタルを病んで、兄はこんな状態の家から逃げて、私までどうにかなってしまいそうで・・・。
当事者からしたら、「俺たち子供を守る選択はないのかよ!!!」って、怒りがこみあげてしまう状況でした。
こんな私を酷いやつと思う人も多いと思います。
でも、あの状況の当事者なら、同じような経験がある人なら、こんな私の気持ちがわかってもらえると思います。
とにかく私は、離婚を選ばない母に対して強い苛立ちを覚えていました。
躁鬱の果てに、父の最後
家と施設を行き来しながら生活する父。
プライドが高く、こうでなければならないという意思の強かった父にとって、「躁鬱病の自分は生きる価値がない人間」だと感じていたんだと思います。
自分が生きていることで、それだけで食費がかかり、自分を診る人間が必要で、トラブルを起こすたびに周りにも迷惑がかかる。
自分がいなければ食費もかからずに家族が自由になれる。
誰に迷惑をかけることもない。
当時の私は「さっさと父に消えてほしい」と思っていました。
毎日のようにトラブルを起こし、その影響で姉までメンタルを病み、こんな状況から逃げたくて兄のように外に逃げたいと何度も何度も思いました。
でも、それはできない。
愛とかそういうものじゃなくて、私だけでは生活ができないという現実があったから。
それに、兄のように私まで逃げてしまたら、母一人で精神を病んだ父と姉を診なければならない。
そんな状況では母がおかしくなるのは時間の問題のようにも思えて、母がおかしくなってしまったら、もう誰もこの家族を守ることはできないわけで…。
逃げたい気持ちと、逃げたらさらにとんでもないことが待っているという恐怖もあり、私は父と姉、そして母の近くにいるという選択をしました。
きっと父は全部わかっていた。
母にかかっている負担の大きさを。
こんな家から逃げ出した兄の気持ちを。
自分の影響で精神を病んでしまった姉のことを。
逃げたくても逃げられない私のことを。
みんな「父さえいなければ」と、少なからず思っていて、父はそれを感じ取っていたんだと思います。
その時が来るのは必然でした。
父は大切にしていた車の中で、自らの体と車にガソリンをまき火をつけ、業火の中で命を落としました。
炎の中の父を見て私が思ったことは「これでやっと楽になれる」という非情な思いでした。
すでに私の心も病んでしまっていたのかもしれません。
嘘のように平穏な日々、だけど・・・
父のいない生活。
嘘のように静かな毎日。
姉の症状も落ち着き、兄も時々帰ってくるようになった。
気を張っていた母も穏やかな表情になり、私も穏やかな気持ちで生活していた。
でも、そんな穏やかな生活は長く続かず、我が家にはまたトラブルが続くようになっていった。
まるで父、姉の症状の悪化
穏やかな毎日が続かなくなったきっかけは「姉の症状の悪化」でした。
父がいなくなり、しばらくの間落ち着いていた姉の鬱状態が、今度は「躁鬱」の症状として現れ始めたんです。
姉は鬱だけだと思っていたので、躁状態になった時は本当に驚きました。
その姿はまるでかつての父のよう。
父が「俺のことを忘れるな」と言っているかのように、姉の姿は父の姿と被っていました。
トラブルを起こしては警察から連絡がくる姉。
やっと楽になったと思っていた私に、姉が起こすトラブルは「もう逃げられないんだ」と思わせる絶望感がありました。
現実を見失い貢ぐ私
姉の症状の悪化に絶望感を覚えた私は、好きでもない彼女に貢ぐ日々を送り始めました。
父が病んでいたころからの彼女、好きでもないのに付き合っていたのは、彼女といる時間は現実から逃げることができたからでした。
彼女に家の話しはしていなかった。
だけど、姉の躁鬱状態に耐えられなくなった私は、ついに彼女に家の事情を話した。
「大変だったんだね。でも、今すぐ生活ができなくなるって話しじゃなくてよかったね。私、明日までにお金がないと生きていけないから、今あるお金、全部貸して」
私はお金を渡しました。
父にいなくなってほしいと思い、姉にまで嫌気がさし、再び逃げ始めた兄への失望感と、なにも改善させてくれない母への怒り。
そんな醜い感情を持った自分への、ある種の自傷行為でした。
思い出との別れ、引越しという選択
絶望にも似た毎日の中、母が起こした行動は「引越しをする」というものでした。
私ははじめ「何言ってんだ」と思いました。
壮絶だったとはいえ、いなくなってほしいと思ったとはいえ、この家や地域には父との思い出があって、私にとってはかけがえのない場所でした。
家の壁についた傷を見ては、父とケンカした時の傷だなとか、天井のあの模様が鬼に見えて怖かったなとか、身長を記録した柱には私たちの成長も刻まれていて、家というものにはすごく愛着があったんです。
それなのに引越しをするという母、何言ってんだろう。
母の話しを詳しく聞いてみると、嫌な出来事が続き、良い出来事に恵まれない現状について、占い師に相談したらしく、その占い師が言うには「引越しですべて解決する」という話しなのだとか。
引越したくらいで何が変わるんだよ。
所詮占い、テキトーなことを言って母を騙してきたに違いない。
そう思った私はとにかく大反対。
引越しなんかしたくないと、兄と姉にも同意を求めました。
姉は自らがメンタルを病んでしまっている負い目からか、母のいうことに従うことを選び、引越したくない私の言葉は届きませんでした。
兄は引越しに賛成、と言うか、自分には関係ないという態度で、母がそうしたいなら勝手に引越せばいいという他人行儀な反応。
明確に引越したくないと表明したのは私だけで、多数決で引越しをすることになってしまいました。
引越しの効果は2ヶ月とか3ヶ月とか、数か月すると現れて、私たち家族の運勢を強力にアップさせる。
そう説明をする母は、いつ引越しをするのかまですでに決めていたようでした。
引越し効果!?好転し始める人生
どたばたの引越し。
子供のころから育った家との別れ、思い出たちとの別れ。
悲しい気持ちがある中、心のどこかで「これでこんな不幸な毎日から脱出できるのかも」と、少しだけ期待している私がいました。
引越しから2ヶ月
引越しから2ヶ月ほどたち、ふと気が付いたこと。
それは「姉の躁鬱状態がかなり軽減されている」ということでした。
多少の鬱にはなったり、ちょっとハイになったりはするけど、それでも普通の人のちょっとだけ激しめ程度の状態で、自殺しそうになることもなく、外でトラブルを起こして帰ってくるなんてこともなくなっていました。
私の方も、引越したことで自然と彼女と会う機会が少なくなり、お金を渡すこともなくなった私に「家族と私どっちをとるの!?私をとるならお金持ってきて!」と叫ばれた日を最後に貢ぎ生活も終了しました。
母は穏やかな生活が手に入り、毎日笑顔で過ごすようになりました。
大変な毎日を送っていた母にまた笑顔が戻ってくるなんて、本当に夢のようでした。
トラブルがなくなった家には、兄も頻繁に帰ってくるようになりました。
いつも家から逃げていたことを土下座であやまり、今後は家族のピンチには必ず力になると母に誓っていました。
引越しから2ヶ月。
訪れたのは平穏な日々。
これが引越しの効果だったのか、それともたまたまだったのかわわかりません。
でも、私たち家族が占い師の「引越しですべて解決する」という話しに従い、行動したことで、あの壮絶だった毎日から解放されたのは事実です。
私は馬鹿にしていた占いに、そして占い師に頭が下がる思いでした。
「占い師にお礼を言いに行きたい」
そう母に伝えると、母からは思いもよらぬ返事が返ってきました。
母が頼ったのは電話占いだった
母は「占い師には会っていないの、電話で話しをしただけ」と、私が想像もしない答えを返してきました。
「占いの館とかにいったんじゃないの!?」
と、驚いている私に、母はスマホの画面を見せて「このサイトで占ってもらったの」と、恥ずかし気に占いサイトを見せてきました。
・・・こんなサイトに私たちの運命を預けたのか!!!
私は衝撃を受けましたが、その数秒後にはこんなサイトでも人の人生を大きく変える力があるんだなぁと感心する気持ちに変わっていました。
なぜなら、私たち家族はこのサイトに救われたってことだから。
母の変化、私に残された使命
電話占いの力なのか、私たち家族は毎日笑顔で生活することができたいた。
なんだかんだでたまにしか帰ってこない兄にも、満面の笑顔で接する母。
躁状態で家具を壊してしまうことがある姉にも、満面の笑顔で接する母。
たまに女に貢いでしまってお金を欲しがる私にも、満面の笑顔でお金をくれる母。
何があっても満面の笑顔の母・・・。
・・・
・・・・・?
あれ?お母さんって、こんなに笑顔ばっかりの人だっけ!?
兄と姉はともかく、女に貢ぐためのお金をせがむ私にまで満面の笑顔っておかしくないかい!?
ふと気になった私は、冷静に母のことを観察してみた。
母のことなんてゆっくり眺めたことのなかった私は、心が痛くなる現実を見ました。
「母は、いついかなる時もずっと笑顔で過ごしていた」んです。
昔はもっと怒ったり、不機嫌になって八つ当たりしたり、誰かの悪口を言ったりする喜怒哀楽を表現する人でした。
それが、今の母は常に笑顔。
まるで感情をなくしてしまった人形の様に同じ顔で固定されていました。
私は母に内緒で電話占いに相談しました。
占い師の話しでは、父が自殺に追い込まれた責任の多くは妻である自分にあると考えていて、その罪悪感はとてつもなく大きなものに膨れ上がっているのだと。
そして、残された家族と明るい毎日を過ごすために、今も必死で家族を守ろうとしているのだと。
その決意の表れが「常に満面の笑顔」という表情に現れてしまっているのだと。
その重荷は引越しと言う単純な行動だけで払拭されるものではなく、これからの生活の中で徐々に和らいでいくものなんだと。
この話しを聞いて私が決めたことは「いつか母を怒らせてやる」ということでした。
いまだに何をやっても怒らない母が、いつか私たち子供たちに怒れる日が来るように、家族の絆を強く育てていきたいと思っています。
あとがき
母は今でも、月1ペースで電話占いで鑑定してもらっているそうです。
人生の危機を、家族の大ピンチを救ってくれた電話占いに感謝していると、今でも私たちに話してくれます。
姉は「私も占いで誰かの悩みを解決してあげたい」と言い、占い師になる勉強を始めました。
兄は結婚し、同居しているお義父さんが痴呆症になった時も、逃げずに面倒を見続け、奥さんや家族の方からとても感謝される人間になりました。
私は、気になる女性ができた時に電話占いで相性を占ってもらい、アドバイスを受けながら結婚という幸せを手に入れました。
今でもトラブルがあれば電話占いに相談し、トラブルになりそうな気配がある時も鑑定してもらうなんてことをしています。
当たる占い師辞典では、電話占いの体験談をたくさん紹介しているので、同じような悩みを相談している方の口コミを見てみて、気になる先生がいたら相談してみてください。
あなたの何かのきっかけになってくれたら幸いです。